Krishnamurti 全的な気づきと排除的集中    Ver 1.23





瞑想を理解していくなかで、思考の制御という問題が浮かび上がってきます。
それは、あらゆる他の思考に対する抵抗を意味します。
私は、ある一つの対象に集中したいのですが、
思考はあてどもなくさまよい、常にそれていきます。
私は集中します、制御します。
その一つの思考を除いた他の一切の思考を押しのけようと途方もない努力をします。
その一つの思考は最終の快楽に基づいています。
集中は、排除、意識の焦点を絞りこむこと、
他のあらゆるものを闇のなかにとどめ置くことを意味します。

しかし、身体、神経、目、耳、頭脳、あなたの存在全体で注意深いとは何なのか、
あの飛行機の苛立たせる騒音に聞き入るとは何なのか、
見ているものに、ひとの話しに、思考に注意深いとは何なのかを理解するとき―
そのとき、その注意のなかに、排除ではない集中があるのです。
私は注意深く見ていることができ、排除なしに気づいていることができるのです。



重要なのは、自分自身の内部で起きている感情の全過程を知覚し、観察し、
それについて学ぶということです。
それは言葉でその感情を分類し、解釈するというのとは違います。
と云うのは、言葉は過去や知識と結びついているからです。
言語化せずに見つめるというまさにその営みが一切の問題を終わらせてしまうのです。

そして、そのことは「全的な気づき」―
みずからの為す、あらゆる思考、あらゆる感情、あらゆる欲求、あらゆる行為への
自覚があるときにだけ可能なのです。
日常生活のなかで、絶え間なく生起し続ける思考や感情を理解し得るだけの
無選択・無制御の気づきがあるなら、それは可能なのです。



あなたは今、このホールに座っていることに気づいていませんか。
あなたは陽の光に、カラスがカアカア鳴いているのに、
犬が吠えているのに気づいていませんか。

それが外なる気づきです。
そしてちょうど外側に気づいているのと同じように、
あなたはあなたの思考と感情に、
あなたの動機と欲求に、
価値観、羨望、貪欲、プライドにもまた気づいていることができるのです。

あなたが外側に本当に気づいているなら、内なる気づきもまた目覚め始め、
ひとに言われたことなどに対する、
あなたが読むものなどに対する反応にもまた気づき始めるのです。

日常的な関係のなかでのあなたの外面的な反応や行為は、
欲望や恐怖といった内面の状態の表出なのです。
この内部と外部への気づきは、
人間存在の全体的な理解と統合とをもたらす単一の過程なのです。



瞑想とは、選択することなき全事象の運動への気づき―
カラスのカアカア鳴く声、電気鋸の森を伐採する音、葉の震え、さざめく渓流、少年の呼び声―
感情、思考、動機がお互いに追っかけ合い深まってゆく全体的な意識の自覚がある、
この気づきである。

そしてこの気づきのなかで意識のねじれた回転は静まり、静止する。
この静寂のなかに測り知れぬ卓越した運動がある―
いかなる存在も持たず、至福と死と生の本質である運動。
どんな跡形も残さず立ち去り、
しかも静止し不動であるため追跡されることが叶わない運動。
それはいっさいの運動の本質である。



そこで私たちは、まったく違ったものに到ります。
それは、「気づき」と「注意」です。

街を歩いているとき、周りに起こっていることに気づいています。
雲、樹、水面の光、飛んでいる鳥―思考によるどんな干渉もなしに気づいています。
思考は、「これは良い」「これは良くない」
「こうでなくてはならない」「こうであってはならない」と言い続けます。

外側に起きている事柄に気づき、
それからまた内側の運動にも気づいているなら
―あらゆる思考、あらゆる感情、あらゆる反応を見守っているなら―
それは心を途方もなく生き生きとさせます。

「集中」と「気づき」との間には大きな違いがあります。
集中は、排除の過程、抵抗の過程であり、したがって葛藤を生み出します。
これまでに何かに集中してみようとしたことがあるでしょうか。
心はさまよい、あなたはそれを引き戻そうとし、戦いは続きます。
あなたは何かに集中したい、自分の注意を何かに専注したいのです。
しかし、心は窓の外を見たり、何か他のことを考えるのに興味があります。
この葛藤のなかには、そのような時間とエネルギーの浪費があります。
心はそれ自身や他の誰かに果てしなくしゃべり続けます。
あるいは本を読んだりステレオをつけたりと、何かと活動したがります。
なぜでしょう。

観察してみれば分かりますが、落ち着きのなさという習慣があります。
あなたの身体は決して長い時間何もせずに座っていられません。
それは常に何かをしたがり、そわそわしています。
心もまたおしゃべりし、さもなければそれは不安になってしまいます。
そこでそれは、おもわず何かをやってしまうのです。
心は常に何かの社会的問題で、宗教的観念で、雑事で、
過去の思い出で占められていなければなりません。
それは絶えず考えています。

「気づき」は集中とはまったく違います。
強烈に注意深い心は、歪みなしに、抵抗なしに、非常に明晰に観察することができ、
しかも能率的・客観的に機能できます。
それは自然に起こることです。
調べている心は、必ずやこれに到達するはずです
―気づいている心、自身の「あるがまま」を観察している心は。

あなたが雲や樹、妻や夫や隣人の顔を見るなら、
非常に明晰に観察できるのは静けさからだけだということを理解なさるでしょう。
みずからの内なる雑音がないときにのみ傾聴することができます。
話されていることを既に知っていることと比較し、
内なるおしゃべりをしながら聞いているとき、
あなたは実際には聞いていません。
あなたの観察に、どんな形であれ先入観や知識が干渉しているとき、
あなたは本当には観察していないのです。
それゆえ本当に観察し傾聴するということは、
ただ静けさのなかからできるだけです。

それは日常生活のなかでの自己観察―
自分の思考の観察、そして思考の理解のなかから生じてきます。
心が完全に気づいているとき、それは途方もなく静まります。
そしてそれは、その静けさのなかでとてつもなく目覚めています。

そのような心のみが宗教的な心です。
なぜならそれは過去から完全に離れてしまっているからです。
宗教はそのとき、とても言葉にすることができない運動です。
それは思考によって測り知ることができません。
―過去のものの反応である思考によっては。

どうやって雲を見、海面の光の美しさを見るか、
どのように妻を、あるいは隣人を、新鮮な目で
―決して傷つけられたことのない無垢な目でもって見るかを知ったときにのみ、
心は真実であるものを見出すことができるのです。



瞑想をするために技術を学ぶ―
その過程自体が瞑想の否定なのですが。

瞑想は、それとはまったく異なったものです。
それは、どんな実習でも、どんな訓練でも、どんな強制や順応でもありません。
しかし、もしあなたが、
順応の、強制の、達成したい欲望の、何かを獲得することの過程を理解し始めるなら、
そのときそのすべての理解は瞑想の一部です。

自己を知ることが瞑想の始まりです。
それは、あなた自身の思考の働き方を知ること、
思考を、まさにその終わりまで追跡することです。

思考を、その全プロセスに渡って最後まで追跡することは非常に難しいことです。
他の思考が絶えず入ってくるからです。
そして、そのとき私たちは「集中を学ばなければならない」と考えます。

しかし、集中は重要ではありません。
集中は―それを私たちは瞑想するためには持たなければならないと考えるのですが―
狭めること、排除すること、限定する過程なのです。

それで、あなたが「どうやって私は瞑想したらいいのでしょう?」と質問するとき、
重要なことは、なぜあなたが「どうやって」と尋ねるのかを理解することです。
あなたがそれを突っ込んで調べるなら、
あなたはこの調査そのものが瞑想であることを知るでしょう。

しかし、それは瞑想のほんの始まりに過ぎません。
真の瞑想のなかには思考と別の思考者はいません。
追跡者も追跡されるものもありません。
それは「経験する私」という感覚が少しもない存在の状態です。

しかし、その状態に達するためには、
心は本当に、それ自身の全体の過程を理解しなければなりません。
心がそれ自身を理解しないなら、
それはそれ自身の投影のなかに、
それ自身が創出し培ってきた、理論、観念、経験のなかに捕えられることでしょう。
そして、それは瞑想ではありません。

瞑想は自分自身を理解していく過程です。
それが瞑想の始発点です。
自己を知ることが英知をもたらします。
そして心がそれ自身の全体の過程を理解していくにしたがって、
それはどんな動きや要求もなしに非常に静かになります。
そのとき、多分、測り知ることのできないものが現われるのでしょう。





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