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規律(discipline)とは、 外から与えられるものではなく、 自分自身を観察することから生じてくるものです。 抑圧や模倣や順応、あるいは調整ですらなく、 実際に自分を観察するということから生じてきます。 その観察そのものが規律の行為なのです。 それは観察を通して学ぶこと― 莫大な注意を、強烈さを、行為の即時性を持たねばならないという意味において、 その学ぶ行為そのものがそれ自身の規律であるというようなものなのです。 それゆえ、真実であるもの・実在であるものの理解が可能となるには、 すべての心のトリック、欺瞞、錯覚から 心が完全に自由でなければならないということです。 それは多くの作業を必要とする事柄です。 内的な規律―模倣、型への順応、修正ではない規律が必要とされます。 この規律とは、 「あるがままのもの・現に存在するもの」を観察し、 それについて学んでゆくなかに生じてくるものです。 この、それ自身について学ぶことが、それ自体規律なのです。 したがって秩序が生じ、それと共に人間の内部の無秩序の終わりがあります。 このすべてが瞑想です。 瞑想―それは精神の絶対的な静寂、脳の全面的な沈黙である。 瞑想のその基礎は、日常生活のなかに、 あなたがどう考え、どう振る舞うか、 あらゆるものとどう関係しているかの理解のなかに置かれなければなりません。 心の静寂、その完全な沈黙のためには、並外れた規律が必要です。 それは統制や制御、何らかの形式、方式に心を従わせることによってではなく、 思考と感情のあらゆる動きを一日を通して学ぶことから生じます。 このことを深くあなた自身のなかに確立するのは、まったく骨が折れる仕事です。 それはものすごい規律を必要とします― あなた自身のなかに進行していることを、 絶え間ない観察を通して学ぶことによって生じる規律を。 何らかの形の先行理論、結論、公式に従って観察しているなら、 それは為されません。 そのとき、あなたは実際に観察しているのではないからです。 したがって自己を知ることはありません。 完全に独り立つことのできる精神が― 伝統的知識、教師の指導、達成者の模倣といった重荷を背負わされていない精神が必要です。 このことにおいて他人の指導はまったく役に立ちません。 それはひとえに、あなた自身のなかにあるものを、 実際に観察し、理解していくことを通して為されるのです。 あなたは、あなたの生のなかの無秩序に気づきます。 無秩序は基本的に矛盾を意味します。 それは、あるがままのものに直面しないこと、 あるがままのものを何か他のものに変えることを願って、現にあるものを見ないこと、 あるがままのものから離れようとすることです。 あるがままのものから離れるとき、それが無秩序です。 それを超えようとするとき、それが無秩序です。 しかし、あなたがあるがままのものを見るとき、 あなたはそれを変容させるためのエネルギーを持ちます。 それが秩序です。 無秩序という事実があります。 それは疑うことのできない、ありのままの事実です。 この事実に対する伝統的なアプローチは、 それを分析し,その原因を見つけ出し、それを克服したり、 対立するものを作り出してそれと戦おうとするものです。 これが修練、訓練、抑制、抑圧、昇華といった伝統的なアプローチです。 人間はこのようにして何千年もの年月を重ねてきましたが何も変わっていません。 このアプローチを完全に捨て、その問題を全く違ったように見ることができるでしょうか。 あなたは、見る対象に干渉したい、何かしたいという見方で事実を見続けています。 それに対して何もしてはいけません。 あなたが何をしようと、それは伝統的なアプローチに属するものだからです。 それだけです。 単純でありなさい。 過去をすっかり拭い去った感情と知性で知覚すること―これは知覚の奇蹟です。 否定が最も積極的な行為なのです。 そこで私たちは、私たち自身を― 恐怖、欲求不満を伴う、虚しさの苦悩、快楽の果てしのない追求を伴う、私たち自身を― 観察しなければなりません。 観察者なしに、この「私」という構造の全体を観察するためには 最高の形の規律を必要とします。 私はこの「規律」という言葉を順応とか強制の意味ではなく使っています それがどんなものであれ―あなたの妻、夫、隣人、雲― 観察するためには非常に鋭敏な心を持たなければなりません。 この観察そのものがそれ自身の規律をもたらします。 それは非-順応です。 したがって、最高の形の規律は規律ではありません。 それで、暴力と呼ばれるものを、条件づけを、意見・偏見のはたらく様を、 分離なしに、観察者なしに観察することは、あなたのあるがままを見ることです。 それが「あるがままのもの」です。 あなたのその観察に分離があるとき、 あなたは「変わることができない!」と言います。 ひとは何千年もの間そのように生きてきました、 そしてそのように生きてゆくでしょう。 あなたは、実際に現に存在するものを観察しなければなりません。 「あって欲しい」と思うものではなく。 「それは醜い」「それは美しい」「それは正しい」「それは間違っている」 と決して言わないで。 あなたはそれを知識と比較を通じてのみ知るのです。 非常に聡明で非常に明晰な誰かと、 あるいは悟ったといわれる誰かと比較して「私は鈍い」と言います。 今までに自分を他の誰かと比較せずに生きてみようとしたことがありますか。 そのときのあなたはどんなですか。 そのとき、あなたがそうであるものが「あるがままのもの」です。 そのとき、あなたはそれを超えることができます。 それ故、心を条件づけから解放するというこの問題の全体は、 「心がどのように観察するか」ということにかかっているのです。 |