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人はなぜ、一日を通して無意識からの暗示や告知に開かれているようできないのだろうか。 それができれば全く夢を見ることはなくなるだろうに。 睡眠中、この「夢」という絶えざる葛藤が続いているかぎり、 ひとの心は決して静まることがなく、新鮮にされることもない。 心が終日、油断なく気づき、目覚めていることによって、 実際に開放されていくことができるなら、 下に隠れた問題の暗示や告知は、現われ、観察され、そして消え去ってゆくことだろう。 会話や行為、起こり来たるあらゆる出来事のなかで、始終気づき、注意深くあることによって、 隠れた恐怖と表に現れた恐怖との両者が暴かれてゆく。 そうすれば、あなたが眠っている時には、ただ眠りだけがある。 それは完全に静かであり、一片の夢を見ることもない。 そうして初めて、翌朝新鮮に、若々しく、無邪気に、生き生きとして目覚めるのである。 これは理論ではない―それを実際にやってみるなら分かることだ。 心の静寂は自然に生じます―どうかこれをよく聞いて下さい。 どんな風に観察するかを知っているなら、 それは自然に、容易に、何の努力もなしに生じます。 雲を観察するとき、言葉なしに、したがって思考なしに見て下さい。 「観察者」としての分離なしに見て下さい。 たとえ、その見ることが、わずか一分、一秒しか続かないとしても、それで結構です。 欲張らないでください。 観察者なしに見るとは、 「観察者」と「観察されるもの」との間の分離なしに見るということです。 木、雲、水面の光を観察者なしに見、 そしてまた自分自身を、イメージなしに、何の結論もなしに見ることができるなら、 そのとき、あなたは、心、頭脳が途方もなく静まっていることを見出すでしょう。 この静けさは養成されるべきものではありません。 それは起こることができるのです。 あなたの身振り、言葉、感情の動き、その他あらゆるものを、 じっと見ていることができさえすれば。 それを変えようとするとき、それは問題、葛藤を生み出します。 しかし、あなたがそれをじっと見ているだけなら、 これはそれだけで変化をもたらします。 静寂は、深い注意が意識的なレベルだけでなく、 より深い意識の層にもあるとき起こります。 夢と睡眠は非常に重要です。 睡眠のなかでも目覚めていること、 心と身体が眠っている間にも気づいていることは瞑想の一部です。 私たちは言いました― 瞑想は心を空にすることであると。 意識的な心の部分のみならず、隠れた層のすべてもまた。 睡眠中、まったく何の意味もなさそうな様々な種類の夢があります。 次に意味を持つ夢があります。 そして、その意味は、それが見られている間に理解することができます。 これは、日中、 あなたがあなたの思考、感情、欲求、衝動などの、あらゆる動きを見守っており、 注意深くそれに気づいているときにのみ可能です。 見守ることは、あなたがそれを修正しようとしないなら、疲れさせるものではありません。 昼間のあいだ、無選択に見守り、好悪、是非判断などの反応なしに気づいていられるなら、 あなたが夢を見ているまさにその瞬間、その活動そのものが理解されます。 それゆえ睡眠中の心は途方もなく目覚めているようになります。 この意識の覚醒は、表面的な心が決して見ることができないものを見ます。 それゆえ、静寂は練習されるべきものではありません。 それは、あなたが意識の構造の全体を理解したときに生じてくるものなのです。 夢を分泌することのない生、夢を必要としない生があるためには、 日常生活のなかのあらゆることが、 残るくまなく、注意深く、見張られていなければならない。 他者へ対する態度、感情的反応、自身の肉体的状態、 食事の摂り方、挙動、習慣、習癖、など。 それらが残りなく見張られていることによって、 はじめて一日の終わりと共に全的に死に、 目覚めと共に新たに生まれ出るということが可能となる。 あなたが一日を通して、あなたの無自覚的な動機、衝動、 執着、価値観、欲求不満などに気づき始めるなら、 あなたはそれを発見することができます。 起きて活動している間、あなたがそのすべてに本当に気づいているなら、 あなたが注意深く、油断なく、よく見ているなら。 その結果、あなたの心が無自覚的な欲求とその不満に、もろもろの恐怖に、 もはや捕えられていないなら。 そのとき、確かに夢を見る必要はないのです。 昼の間、油断がなく、その反応に注意深かったので、 夜眠るとき、心は静かで平和です。 そのとき、大いなる明晰さをもたらす未知の何かに触れる可能性があります。 私の心が問題で混乱しているかぎり、 心がそれ自身の欲望、恐怖、心配、欲求不満で占められているかぎり、 明らかにそれ自身を越えて進むことはできません。 私たちが眠るとき、 私たちの夢は私たちが理解していない、より深い何かのほのめかしなのです。 しかし日中、私たちがあらゆる野心、欲求、相矛盾する欲望、心理的な依存に 十分に気づいており、それゆえそれを解消することができるなら、 そのとき、確かに、思考の測定を越えた何かを発見することができるのです。 そう云う訳で、自分自身の力で自分自身を調べ尽くすことが、それほどにも重要なのです。 あなたは自分を知るために、本を読むことも、指導者、セラピストに頼ることも 必要ありません。 すべてがあなたのなかにあるからです。 それは、ただ、あなたが「関係の鏡」のなかで観察し抜くことを必要とするだけです。 けれども、そもそもなぜ夢が生じなければならないのでしょうか。 あなたが起きているあいだ、自己の活動のすべてを非常に綿密に観察するとき、 それに一日中注意深くあるとき、 そのとき、夜、夢を見ないということが分かるでしょう。 心は思考のどの瞬間にも、じっと見守り、そのどんな動きにも注意深くしてきたからです。 あなたがそれを実際にやってみるなら、その美しさを知るでしょう。 そのとき、睡眠中も瞑想があるということに気づくでしょう。 それは威厳と優雅さと美しさに満ちた、途方もなく重要で価値あるものです。 あなたが「気づいている」ということがどんなことであるのかを、 起きている間のみならず寝ている間も理解してゆくとき、 そのとき心の全体はすっかり目覚めているのです。 そのむこう側は、どんな形の記述もできるものではありません、 それについては語れません。 できることは扉を指し示すことだけです。 あなたが、もし行こうと思うなら―そこに向けて旅をなさい。 夢は時間の浪費、エネルギーの浪費だと私は思います。 ひとが一日を通して、あらゆるものを見守り、 自分の歩き方、話し方、考え方を見守り、 人々や自然とのあいだの関係を見守り、 下に潜んでいるすべてに始終気づいていられるなら、 そのとき夢を見る必要は全くないのです。 可能なかぎり、深く、充分に、各々の思考・感情に最後までついていき、 気づいていればいるほど夢は少なくなっていくでしょう。 起きている昼間の間、各々の思考・感情・反応に、できる限り充分に気づいており、 際限なく最後までついていくこと。 それは粘り強い真剣さを必要とすることです。 あらゆる思考と感情に気づいていることによって、 できるかぎり深く、充分に、その全ての反応を感じ尽くすことによって、 秩序と明晰さ、理解が生じます。 それは気づきを大いに強めます。 それゆえ、目を覚ましているときも夜眠っているときも共に、 夢は減少してゆき、次第に消滅してゆき、 そして睡眠が目を覚ましている時間と同じように重要になります。 と云うのは、そのとき睡眠は目を覚ましている状態を更に強化したものだからです。 目を覚ましている状態のなかで、より深いレベルに触れれば触れるほど、 ますます睡眠のなかで、意識のもっとも深いレベルを越えて存在するこれらの状態が はっきりしてきます。 そしてそのとき、 この経験が目覚めている意識的な心に深い影響を及ぼすことが分かるでしょう。 意識的な心の届く範囲より上に、それを越えて存在するその状態を経験することは最も難しい。 それは無意識全体が、それ自身の中身を空っぽにして初めてあり得るからです。 深い静けさがあるときにのみ、名前を持たないものの完全な理解があります。 睡眠中に心が完全に静かであることができるでしょうか。 これは可能です。 それは日中の苦しみが、その各々の瞬間に理解され、 そのため、それが終わり、持ち越されないときにのみ可能です。 今朝、瞑想の性質は、無(ナッシング)―すなわち時間と空間のまったき不在だった。 これは一個の事実であり、観念でも、ぶつかりあう推測の逆説でもない。 ひとは一切の問題の根が枯れ果てるとき、この不思議な無を見出す。 この根は思考―区別し、執着するところの思考―である。 瞑想において、精神は過去をすっかり空(から)にする。 これは日中ずっと続き、そして夜、眠りは昨日をすっかり空にし、 それゆえ精神は時間を超越したものに触れる。 |