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思考とは、現在を修正しながら今を生き延びている過去なのです。 そのような生には新しいものは何一つありません。 新しいものが現れるためには過去が終わらなくてはなりません。 心は、思考、恐怖、快楽、その他のもので占め塞がれていてはなりません。 心が、それらで塞がれていないときだけ、新しいものが生まれ出ることができます。 思考は、必要なときに、客観的・能率的に作用する以外は静まっていなければなりません。 継続するものはすべて思考です。 継続するものがあるかぎり新しいものは何一つありません。 これが、どんなに重要なことだか分かりますか。 これが生そのものへの真の問いかけです。 あなたが過去に生きているにしろ、まったく異なった生き方をしているにしろ、 それがすべての要点なのです。 観察者が観察される対象であるとき、葛藤は終わります。 このことは全く自然に起こります。 たとえば突発的に非常な危機に遭遇したとき、 観察者と観察される対象との間の分離はありません。 そこには直接の行為、行為における即時の応答があります、 それについて考える時間を持ちません。 このような状況のなかでは、 脳が過去の諸々の記憶に煩わされていては即時の応答ができないからです。 観察者と観察されるものとの間の分離がやむとき、 心理的に、内面的に、変容は即時です。 思考を要せず、直ちに行為が生まれ出るのです。 そのような状態でないとすれば、あなたは過去のなかに生きているのです。 すべての知識は過去に基づいています。 そして人は「そこ」に生きるのです。 人の生の基盤は「そこ、昨日」にあるのです。 そして、その「昨日」が、私たちから純真さと無防備さを奪い取るのです。 ですから「昨日・過去」が観察者の正体なのです。 その観察者が、意識はもちろん、あらゆる無意識的なものの蓄積者なのです。 私たち個々のなかで作用し、 意識と無意識との両者において、より深い蓄積をもたらしているのは「人類全体」です。 ひとは何千年にも渡る記憶の結果です。 その歴史と記憶は、私たち個々のなかに埋め込まれています。 もし、ひとがそのなかへ入り込み、探究する仕方を知り、 そして実際にその内部へと深く入っていくなら、 進んだだけのものを見出すことでしょう。 そこには「過去」という時間の全歴史、全知識が存在しています。 それが自己認識がとても重要だという理由なのです。 完全に、徹底的に、偏見や先入観なしに、 自分の全存在でもって体験に直面するとき、 体験は心に記憶という傷跡を残しません。 行為が不完全であるとき、 体験に十分に直面せず、伝統や偏見や恐怖の障壁を通してであるとき、 そのとき、その行為は記憶の苦しめにつき従われるでしょう。 この記憶の堆積があるかぎり、過去・現在・未来としての時間があることでしょう。 心が思考という鎖につながれているかぎり、 その行為は過去・現在・未来に分離されているに違いありません。 時間は幻想である。 時間を、内面的・心理的変化をもたらすための手段として使用している思考は、 実は不変を追求している。 と云うのも、そのような変化は今まであったものの修正された継続に過ぎないからである。 そのような思考は、ものぐさで、物事を延期して、 漸進という幻想、観念、時間のなかへ逃避する。 時間を通しては変容は不可能である。 時間を否定することが、まさにその変容である。 変容は時間によってもたらされた事象― 習慣、伝統、改革、そして観念などが否定されるところに起こる。 時間を否定すると、 単なる様式の変更や、別の様式が他の様式にとって代わるのではない 全的な変容が起こってくる。 しかし、知識を獲得したり、技術を学んだりするには否定できず、 又、してはならない時間も存在する。 それらの知識や技術は生存のためには不可欠である。 ここからあそこへ行くまでの時間は幻想ではない。 が、他の全ての形態の時間は幻想である。 この変容のなかに気づきが存在し、 この気づきから全く異なった種類の行為が生まれる。 そのような行為は、頭脳を鈍化させ、変容に対して無感覚にさせてしまう、 感情や経験や知識の反復という習慣に陥ることはない。 そのとき美徳とは、より良い習慣でも、より良い行いでもない。 それにはいかなる様式も限界もなく、尊敬されるような性質のものでもない。 したがって、それは追求されるべき観念でもなければ、 時間によって形成されるものでもない。 つまり美徳とは、社会にとっての脅威であり、 社会によって飼い慣らされるものではない。 したがって、愛することは破壊であり、 革命とは経済や社会の革命ではなく、全的な意識の革命なのである。 「心は並外れて静かでなければならない」ということを私は見ます。 なぜなら、どんな方向への、どんなレベルでの動きも― どんな動きも、常に、時間の領域内にあるということを私は知るからです。 かなり正気で、かなり合理的な健全な心を持って、私はここに居ます。 そしてそれは変わりたい! それは変わらなければなりません。 私の生き方はあまりに馬鹿げており、あまりにも愚かだからです。 そこで心は「私は変わらなければならない」と言い、 そして時間をかけて徐々に変化しようとします。 心が聡明なら、そのやり方をしりぞけます。 それは、ただ修正された同じパターンを繰り返しているに過ぎないということに気づきます。 そうではなく、完全な静けさのなかにのみ変化の可能性があるということを見ます。 そこで心は静かであろうとし苦闘しますが、それは再び時間の領域内にあります。 心は即座に変化しなければなりません。 さもなければ、それは少しも変化ではありません。 私は明日を当てにすることはできません。習慣的に行うこともできません。 平和や静けさの感覚を私に与えてくれるだろうと思われるパターンに順応するための 時間も持っていません。 このすべてを理解することによって、私の心は驚くほど敏感で注意深くなり、 それ自身に途方もなく気づいているようになります。 私たちがいま使っている意味での「時間」をあなたがしりぞけるとき、 動きのすべて―意識的、あるいは無意識的な、 いかなる方向へもの動きのすべてが終わってしまうのです。 過去が私なのです。現在のなかに私はありません。 心が過去のなかを動き廻っている限り私があります。 私とは、この過去に他ならないのです。 頭脳とは何と奇妙なまでに浅薄なものだろう。 思考は、いかに精妙で深遠であろうとも、やはり浅薄さの所産である。 思考は時間によって縛られており、時間は卑小なものである。 「見ること」を歪めるのはこの卑小さなのだ。 見ることは、理解がそうであるように常に瞬間的であり、 時間によって組み立てられた頭脳が見ることを歪め、妨げているのだ。 時間と思考は切り放すことができない。 一方を終息させるには、もう一方も終息させなければならない。 思考は意志によっては破壊されない。 と云うのも、意志は行為における(行為的な)思考だからである。 思考は言葉であり、言葉は記憶や経験の蓄積である。 言葉なくして思考は存在するだろうか。 言葉でもなく、思考にもよらない運動がある。 この運動は思考によって記述され得るが、それは思考のものではない。 この運動は、頭脳が静止していながら生き生きとしているときに現れる。 そして思考は決してこの運動を探り当てることはできない。 恐怖がある。 しかし、それは決して現実ではない。 それは生き生きとした現在の前か後ろにある。 生き生きとした現在に恐怖があるとき、果たしてそれは恐怖なのだろうか。 それはそこにあり、それを回避することは不可能である。 肉体的、心理的危機などの現実的な瞬間には、 全的な気づきがあり、恐怖は存在しない。 だが、気づきの欠如という実際的な事実が恐怖を生み出す。 事実からの逃避、闘争があるときに恐怖は生起する。 つまり逃避そのものが恐怖なのだ。 それは安全を求めているときに必ず存在する。 様々な形態の恐怖が、意識のあらゆる層において存在している。 防衛や抵抗や否定は恐怖から起こる。 恐怖は、安全であろうとする欲望、確実で永遠のものであろうとする欲望を伴った 内面的、外面的な安全性と共に始まり、そして終わる。 永遠の継続が、あらゆる方向、美徳、関係、行動、経験、知識のなかで捜し求められている。 それを見つけ、安全であろうとすることが永遠の悲願なのだ。 恐怖を生み出しているのは、まさにこの強力な要請そのものなのである。 思考それ自体が恐怖の源である。 思考とは時間であり、 明日を考えることが快楽や苦痛の原因である。 もしも、それが逸楽的なことであれば、 思考はその終焉を恐れて、どこまでもそれを追い求めてゆく。 もしも、それが苦痛を招くようなことであれば、 それを避けようと思考することが、まさに恐怖を生み出してしまう。 快楽も苦痛も共に恐怖の原因となる。 思考としての時間、感覚としての時間が恐怖をもたらす。 記憶と経験の機構である思考を理解することが恐怖を終焉させる。 思考は、表層と深層に渡る意識の全過程である。 思考とは、考えられた物事だけではなく、それ自体の源でもある。 思考は、信念や教義、観念や理性のみならず、それらが生じてくる中心でもある。 この中心が全ての恐怖の源である。 だが、恐怖を直接経験することや、 思考がそこから逃れようとしている恐怖の原因についての理解はあるだろうか。 肉体的な自己防御は道理にかなっているし、正常で健全なことである。 しかし、内面的なあらゆる形態の自己防御は抵抗であり、 それは常に寄り集まって恐怖である力を築き上げる。 この内面的な恐怖は、外面的な安全性を、集団、地位、力の問題に転換させ、 そしてそこには競争による無情さが存在する。 この、思考、時間、恐怖の全過程が、一つの知的な観念としてではなく見られたとき、 意識的、あるいは無意識的な恐怖の全面的な終焉がある。 自己認識とは、目覚めであると同時に恐怖の終焉でもある。 そして恐怖が止むとき、 希望と絶望を伴った幻想・神話などを生み出す力もまた止み、 そうしてのみ思考と感情である意識を越えてゆく運動が始まる。 それは、最も奥深い場所の深く隠された欲求や欲望を空っぽにすることである。 そして、この完全な空があるとき、 絶対的に文字通り無であり、どんな影響も価値も境界も言葉も存在しないとき、 あの完璧な時空の静寂のなかに、名づけ得ないものが存在する。 私たちの精神や行動や存在は時間に基づいています。 したがって時間なしには私たちは何も考えることができません。 なぜなら思考は時間の結果であり、 無数の昨日という過去の産物であるからです。 精神から離れて時間は存在するでしょうか。 確かに、心理的な時間は精神が生み出したものであり、 思考という土台がなければ時間は存在しません。 心理的な時間とは、今日と関連した昨日としての記憶に過ぎないものであり、 それが明日を形成しているのです。 つまり現在に反応して生まれた昨日の経験が、未来を作り出しているのです。 あなたは過去である思考の運動なしに、過去である自分自身を見つめることができますか。 考えることなく、なんの評価もなく、好き嫌いもなく、なんの判断もなく見つめるとき― そのときあなたは、過去によって汚されていない目で、ものを見ているのです。 それが静寂のなかで見ること、思考の騒音なしに見ることです。 この静寂のなかには観察者はなく、 また観察者が過去として見ていたものもありません。 精神分析学者は、心理的問題、条件づけ、コンプレックスなどを見出すために過去を探ります。 しかし過去を理解するためには、過去である現在が理解されなければなりません。 すなわち、現在を通じて過去があるのです。過去は現在に関係がないのではありません。 つまり、過去を理解するための扉は現在であり、それはまた未来への扉でもあるのです。 過去の意味を理解するためには現在が理解されなければならないのです。 そして心が過去を理解し、 したがって今現在の私たちの存在の内容全体に、 今あるままのあなたに心理的に気づいてくるとき、 現在は理解されることができます。 したがって、現在を理解するためには過去を見守らなければなりません。 なぜなら、あなたの思考は過去に基づいているからです。 確かに、それは明らかではないでしょうか。 あなたは過去なしに考えることはできません。 そして過去を理解するためには、今あるままのあなたを調べ、 今あるままのあなたに気づいていなくてはなりません。 理解すべき主要な点は、 「即時の心理的な変化」について私が本当に関心を抱いているなら、 それは、ある未来の「どこか」での、ある未来の「いつか」での変化ではないということです。 |