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さびしさを見ないが為に結婚したり、 退屈を見ないで過ごすために趣味や娯楽に没頭したりするなら、 そのとき生の全体は、果てしのない気まぎらわせの連続に他ならないでしょう。 ほとんどの人は、虚しさの、このとてつもない恐怖を乗り越えないのです。 しかし、それは乗り越えられなくてはなりません。 それを乗り越えたところに本当の宝があるからです。 あなたがその虚しさのうずきを決して理解しないのは、 あらゆる形の気晴らしと満足とによって、いつもそこから走り去ってしまうからです。 虚しさのうずきがのしかかってくるときには、逃げ去るという考えなどなしに、 それに直面し、見つめなさい。 走り去ってしまうなら、それはいつでも次の角であなたを待っていることでしょう。 なぜ私たちは何らかの宗教的組織に属するのでしょうか。 なぜ教義に執着し、依存するのでしょうか。 教義のなか、信念のなかに、何らかの安全、頼れるべきものを見出すので 執着するのではないでしょうか。 不確かで、怖れており、不安定なので、 心は信念を投影したり、組織や教義に執着し依存するのです。 それ自身の内面的貧しさ、不全感からの逃避として、 心はその空虚さを、教義、信念、観念、行為で満たそうとします。 あなたは一つの教義を放棄し、一つの組織を離れるかもしれません。 が、しかし、自身のなかの、 この内面的な貧しさ、不満足性、空虚さを理解してしまわない限り、 それはたいした意味を持ちません。 結論、信念、知識にあなたを強いて執着させる内面の問題を理解するときにのみ、 それは意味を持つでしょう。 自己を知ること― ひとはなぜ、信じ、拒絶し、捨てるのか。 心の構造全体を理解していくこと。 そのことによってのみ英知は生じるのです。 私たちが自分自身でそのことを見出すまで、 生は非常に浅薄なものに過ぎないでしょう。 私たちは、巨大な富、巨大な勢力を持ち、世界中を旅してまわるかもしれません。 莫大な知識を持ち、上手に講話をするかもしれません。 しかし、その直接の経験がないなら、生は常に空虚なものに過ぎないでしょう。 底の方には常に、悲しみ、苦闘、不満が渦巻いていることでしょう。 精神は、常に自分をあれこれのものでいっぱいにしておくことによって 空虚さに直面することを避ける。 質問者は、なぜ孤独を感じるのかを知りたい。 しかし、あなたはまず「孤独」を充分に感じていますか。 それに充分に気づいていますか。 私はそれを非常に疑わしく思います。 なぜなら私たちは、 私たちが本当に孤独を感じて在ることを妨げる、活動で、本で、関係で、観念で、 常にいっぱいだからです。 それでは孤独とはどういう感覚でしょう。 それは、空虚であるという、何も持っていないという、 どこにも頼みの綱がなく、並外れて不確かであるという感じです。 私たちは皆、それを感じたことがあると思います。 幸福な人と不幸な人、とてもとても活動的な人と知識に耽っている人 ―彼らは皆、これを知っています。 本当に尽きることのない苦痛の感覚。 どうにかしてそれを覆おうとするけれど、決して覆われることのない苦しみの感覚。 そこで実際に何が起きているのかを見るために、 あなたがその孤独を感じるとき何をするのかを見るために、 この問題に接近してみましょう。 あなたは孤独のこの感覚から逃れようとします。 本を取り上げたり、映画を見に行ったり、 あるいは社会的に非常に活動的になったりします。 あるいは宗教的指導者に会いに行きます。 絵を書いたり、孤独についての詩を書くのかもしれません。 それが実際に起こっていることです。 孤独に、その苦痛に、その並外れた底なしの恐怖に気がついているので、 あなたは逃避を求めます。 そして、その逃避がより重要になります。 したがって、あなたの活動、知識、教義、テレビが重要なものになるのです。 私は言いました― あなたが二次的な価値に重要性を与えるとき、それらは悲惨と無秩序に導くと。 そして、二次的な価値とは、必然的に感覚的な価値なのです。 そして、これらに基づいている現代文明は、 あなたに、仕事を通じての逃避を、家族を通じての逃避を、有名であることを通じての逃避を、 研究を通じての逃避を、絵を描くことを通じての逃避を、与えてくれます。 私たちの文化のすべては、その逃避に基づいています。 私たちの文明はその上に建てられています。 それは事実です。 あなたは、これまで独りで居てみようとしたことがありますか。 あなたがそうしてみるとき、それがどんなに並外れて難しいか、 独りで居るためには、どんなに並外れて聡明でなければならないかを知るでしょう。 なぜなら、心はあなたを独りで居るままにしておかないからです。 心は落ち着かなくなり、何かしたくなります。それは逃避で忙しい。 それで、私たちがしていることは何でしょう。 私たちはこの並外れた空虚を既知のもので満たそうとします。 私たちは、どうやって活動的になるか、どうやって社会的になるかは知っています。 どうやって研究するか、どうやってテレビをつけるかは知っています。 それで私たちは、私たちの知らないそのもの(空虚)を、 私たちの知っているもので満たそうとするのです。 その空虚を、さまざまな種類の知識、関係、物事で満たそうとします。 これら三つのもので、私たちはそれを満たそうとするのです。 それが私たちの生存の過程です。 さて、あなたが自分のしていることをはっきりと理解するとき、 あなたは尚、その空虚を満たそうとするでしょうか。 あなたはこの孤独の空虚を満たす為のあらゆる手段を試みてきました。 そして、それを満たすことに成功してきたでしょうか。 あなたは映画を試みてきました。 そして成功しませんでした。 次に、本や指導者を追い求めます。 あるいは社会的に非常に活動的になります。 あなたはそれを満たすことに成功してきましたか。 それとも単に、それを覆ってきただけでしょうか。 あなたがそれを覆ってきただけならば、それは依然としてそこにあります。 したがって、それは戻ってくることでしょう。 この空虚、この不満足さが満たされることがあるでしょうか。 あるいは、そこから逃げ切ることができるでしょうか。 私たちが、ある一つの逃避が何の価値もないことを経験してきており、見出してきたなら、 あらゆる他の形の逃避も又、無価値なのではないでしょうか。 何によってその空虚を満たそうとするかは全く問題ではありません。 瞑想もまた逃避です。 つまり、あなたが自分の逃避の方向や対象を何に変えるかは全く問題ではないのです。 それでは、この孤独についてどうしたらいいのでしょうか。 あなたが逃避することを止めてしまったときにのみ、 どうしたらいいのかを見出すことができます。 すなわち、あなたが「今あるもの」に進んで直面するとき、 そのとき、その孤独は終わります。 なぜならそれは完全に変化するからです。 それはもはや孤独ではありません。 なぜなら、あなたが「今あるもの・現に存在するもの」を理解するなら、 そのとき「今あるもの」は真実(実在)のものだからです。 心は「今あるもの」を見ることを避けるため、みずから様々な障害物を作り出します。 そして「今あるもの」を決して理解しようとせず、現実から逃げ続けます。 しかし、あなたが「今あるもの」を直接に見るとき、 どんな風にそれが変化するのか知るでしょう。 そして本当に敏感であれば、自分のなかにある途方もない空虚さ― ドラッグの楽しみや、教会の慰め、社交の娯楽などでは満たされることのない 底なしの淵を意識するようになるでしょう。 ですから今、私たちの問いは、 「どのようにして、この空虚さ、この孤独感を超えればいいのか」であって、 「どのようにすれば満足することができるだろうか」や、 「どのようにすれば、この長年に渡る空虚さを忘れることができるだろうか」 ではありません。 心はこの空虚さに直面し、それと共に生き、どこへも逃避せずにいられるでしょうか。 この空虚さから離れようとするいかなる動きも逃避です。 そして、この何かから逃げ出すこと、 「あるがままのもの」から離れようとすることこそが恐怖なのです。 「あるがままのもの」から逃げ出そうとすることが恐怖なのです。 「あるがままのもの」に恐怖があるのではありません。 恐怖とは、逃げ出そうとすることなのです。 そして、これこそがあなたを狂わせるものなのであり、 空虚そのものが恐怖なのではないのです。 それでは、この空虚さ、孤独感とは何でしょう。 どのようにして、それは生じてくるのでしょうか。 明らかに、それは比較や測定を通じて生じるのではないでしょうか。 自分を、賢者、偉大な師、到達した人と比べることによって、 私は自分のなかに欠けているもの、満たされないものを見つけ、そしてこう言うのです― 「私には才能がない」「私は劣っている」「私は悟っていない」 「私は何々でない」「あの人は何々だ」と。 ですから測定と比較から空虚さや虚無感の巨大な空洞ができるのです。 そして、この空洞から逃げ出すことが恐怖なのです。 しかし私たちは恐怖のために、この底なしの淵を理解することができないのです。 私たちは、どんなふうに恐怖に直面しているでしょうか。 私たちは人間が作り出してきた無数の逃避の手段を通じて― 宗教、酒、セックス、瞑想、文学、娯楽、知識、芸術、表現....などを通じて― それを免れようとしてきました。 私たちがこのすべてをやめるとき、 はじめて心は注意深く、そして静かになることができます。 心が果てしなく諸々の気まぎらわせを求めているかぎり、 自己(=問題)に直面することはできません。 私たちは独りであることを恐れています。 空虚であること、何ものでもないことに心の底の方で気づいています。 仕事、肩書き、地位、知識、体験、その他多くのものを持つかもしれません。 しかし、そのすべての下に横たわって、空しさ、満たされなさのうずき、 「孤独」と私たちが名づけている空虚さの感覚があるのです。 たぶん、それが私たちの恐怖の根源そのものなのです。 私たちはそれを理解するために、それを注意深く見ることができるでしょうか。 と云うのは、私たちがそれを超えて進みたいなら、 それを理解しなければならないからです。 私たちの活動の大部分は恐怖に基づいています。 私たちは、正確に、今あるままの自分に直面したがらない、 自分自身を完全に知ろうとは決してしないのです。 あなたが、深く、徹底的に自分自身を突っ込んで調べれば調べるほど、 そこに見出すであろう空しさの感覚はますます大きくなっていくことでしょう。 私たちが学んできたすべて― 獲得してきた知識、経験、能力―は表面上にあり、 もし、あなたがより深く自身のなかに入り込むなら、 それらはほとんど役には立たないでしょう。 ひとが入り込むにしたがって、この空しさの感覚の膨大さに出会うからです。 あなたは、孤独、不十分さの感覚として、 思いがけないつかの間に、それをちらっと見たことがあるかもしれません。 しかし、そのとき、あなたはその感覚から逃げるため、 テレビをつけたり、本を読んだり、友人と会話したりと、「何やかや」やり始めるのです。 そして、その感覚、その「何ものでもない」という感覚が、 恐怖すべての原因なのかもしれません。 私たちの大部分は、時折、まれな瞬間にその状態を経験しています。 そして、まさに瞬間、それを経験するとき、 一般に何らかの形の娯楽、知識を通じて、 いわゆる文明化された世界によって提供される莫大な逃避の機構を通じて、 そこから逃げ去ります。 しかし、もし私たちが逃げ出さないなら何が起こるでしょう。 それを突っ込んで調べることができるでしょうか。 そうしなければならないと私は感じます。 なぜなら、その空しさの感覚を深く踏み込んで調べることのなかで、 私たちはまったく新しい何かを発見し、恐怖から完全に自由になるかもしれないからです。 何かを理解するためには、非難の感覚の一切なしにそれに接近しなければなりません。 心は記憶でいっぱいであってはなりませんし、 非難、評価の感覚すべてから自由でなければなりません。 同様に、 私が「空しさ、孤独、不十分さの感覚」と呼んできたこの状態を理解しようと思うなら、 いかなる非難や拒絶の感覚もなしに、それを注意深く見ることがなければなりません。 心はその空しさの感覚を、じっと見つめなければなりません。 なぜなら、私がその感覚を非難したり拒絶したりしてしまうならば、 恐怖の障壁を作り出してしまうからです。 それで、ひとは自分自身を、この不十分さの感覚を、 何の非難もなしに注意深く見ることができるでしょうか。 それを今、理解すること、 あなたが今、こうして聞いている間に、それを本当に実験すること ―単に立ち去った後でそれについて考えるのではなく。 それが非常に重要です。 あなた自身の孤独、あなた自身の空しさ、恐怖を引き起こす不十分さの感覚を、 実際に観察しなければならないのです。 結局、非難は言語化の過程ではないでしょうか。 もし、あなたが何らかの非難の感覚を持ってその状態に接近するなら、 自由に見ることができません。 それで、私たちはそれを理解するというよりも、 むしろ自分が常にそれから逃げようとしてきたということを完全に理解して、 これまで「空しさ、孤独、不十分さ」と呼んできたそのものを、 いま、注意深く見ることができるでしょうか。 私は、重要なのはそれを理解することであり、 何らかの非難の感覚があるなら、それを理解することはできないということが分かります。 そこで非難がなくなります。 したがって、私はまったく違った心、まったく自由な心でそれに接近しています。 そのとき私は、「心それ自身がその空しさなので、 心は空しさからそれ自身を分離することができない」ということを理解します。 あなたが自分自身で、非難の感覚すべてから自由に、 非常に深く突っ込んでそれを調べるなら、 私たちが「空しさ、不十分さ、恐怖」と呼んできたもののなかから、 並外れた状態―心が完全に静かで、要求しておらず、恐れていない状態― が生じているのが分かるでしょう。 そして、その沈黙のなかに、創造性、実在―それが生まれ出ているのです。 恐怖を少しも持たないこの内面の感覚は、 あなたがあなた自身の思考の過程のすべてを理解するときにのみ起こり得ます。 そのとき、永遠であるものを自分自身で発見することができるのです。 質問者:私たちは、ここに来るという行為そのもののなかに、 自分に光明を与えてくれるあるひらめきを求めていないでしょうか。 クリシュナムルティ:あなたが求めているものは何でしょうか。 質問者: 英知と知識です。 クリシュナムルティ:なぜ求めるのでしょうか。 質問者:深く隠れた内面の空虚を満たそうと努めているのです。 クリシュナムルティ:それなら私たちは、自分の空虚を満たす何かを求めているのです。 この「満たしてくれるもの」を私たちは知識、英知、真理などと呼びます。 ですから、真理、英知を求めているのではなく、 私たちのやるせない孤独を満たしてくれるあるものを求めているのです。 私たちの内部の貧しさを満たしてくれる何かを見つけさえしたら、 私たちの追求は終わるだろうと考えて.... さて、何かがこの空虚を満たすことができるでしょうか。 ある人は娯楽によって、活動によって、宗教的な修行によって、 この空虚を満たそうとしてきました。 他の人はそれに気づいていますが、それを包み隠す方法を見出していません。 私たちの多くは、このまったくの空虚を、不安を、恐怖を知っています。 私たちは、この空虚さ、この恐怖に打ち勝とうと努めてきました。 この内部の不十分さ、 やるせない苦悩を癒すことのできるあるものを探し求めているのです。 あなたがそれを、いつか見つけることができると考えているかぎり、 求めることを続けるでしょう。 しかし、どんなに心奪うものであっても、 「すべての逃避が役には立たない」ということを見るのは英知の一部ではないでしょうか。 逃避についての真実が分かり始めるとき、自分の追求に固執するでしょうか。 明らかにしません。 そのとき、私たちは、「今あるもの」を必然的に受け入れるのです。 この、「今あるもの」への完全な引き渡しは、追求の対象の達成ではありません。 私たちの生は葛藤、苦痛のかたまりです。 私たちは、安全、永久性を切望するのですが、永続しないものの網に捕らえられています。 “私たち”自身が永続しないものなのです。 永続しないものが、永遠なるもの、始めも終わりもないものを見出すことができますか。 無知が英知を見出すことができるでしょうか。 永遠でないものの終止と共にのみ、永遠なるものが露わになるのです。 無知の終止と共にのみ、英知があるのです。 私たちは、永遠でないもの―自己―の終止に関わっているのです。 孤独の恐怖、この孤立の感覚を見てみましょう。 その孤独の感情に聞き入るためには―それを感じ、それに学ぶためには― 途方もないエネルギー、抑制されていないエネルギーが必要とされます。 その傾聴の状態のなかで、心はその孤独に関して完全に静かです。 そのように注意深くそれを学んでいるなら、 それについての知識を蓄積している実体はありません。 そこに「観察する主体=私」と「観察される対象」とのあいだの分離はありません。 ―これがもっとも困難なことなのですが。 この矛盾―この「観察者」と「観察されるもの」とのあいだの分裂が葛藤を引き起こすのです。 では、「観察者」が無いほどに、完全に注意して何かを見ることはできるでしょうか。 心が、もはやその空虚から逃げようとしていないとき、 空虚の反対物を探し求めていないとき、 もはや「空虚」という言葉上のラベルに留まっていないとき、 そのとき、内面的な貧しさの、空虚さ、不十分さの感覚だけがあります。 その事実に充分に気づいていることが重要です。 「それについてどうしたらいいか」ということは問題ではありません。 あなたが自分の存在の全体が空虚であるという事実に、 そしてそこから逃げ出そうと絶えずうろつき回っているという事実に、 単純に気づいているとき、 そのとき、もはやこの空虚から逃げようとはしていません。 それで心は、その空虚という事実に単純に気づいていることができるでしょうか。 私はそれが本当の問題だと思います。 しかし、私たちはその事実をあるがままに注意して見ることができません。 絶えず何らかの形でその事実に働きかけようとし、 それについての意見を持ち、翻訳し、それを非難します。 それ故、事実みずからが作用することを妨げてしまうのです。 事実が作用するとき、作用するのは真実です。 しかし私たちは、この空虚を非常に恐れているため、 いつでもそれに対して何かしようと働きかけ、 それによって自分とその事実との間に分離を作り出してしまうのです。 心が、空虚、孤独、怒り、妬みなどの事実の前で完全に静かであることができるなら、 心がその事実を言葉で取り扱わず、それを変えようと望まないなら、 そのとき、その事実が作動します。 しかし、私たちが事実に働きかけ続けるかぎり、私たちはそれらから解放されません。 非難なしに、結果を望むことなしに、事実に静かに気づいていること、 それが真実をあらわにします。それが自由です。 あなたは空しさから逃げようとしているのです。 次から次へと本を読みあさったり、色々な指導者のもとを尋ねたり、 友人との交わりに時を費やしたりして。 あなたがそれらの逃避をやめたとき、はじめてあなたは自分自身に取り組めます。 あなたが自ら進んで「事実あるがままのもの」に直面するとき、 そのとき、その空しさは終わってしまいます。 なぜなら、そのときその空しさは完全に変容してしまっているからです。 精神は絶えずあるがままを回避し、そこから逃げようとし続けるため、 それ自身がその障碍となっているのです。 なぜ私たちは力を求めるのでしょうか。 なぜ私たちは蓄積するのでしょうか。 なぜ私たちはお金、地位、肩書き、愛を求めるのでしょうか。 なぜ私たちは自我の重荷を背負うのでしょうか。 それは深い切望― 何かになりたい、認められたい切望、 特別な存在として満足していたい切望故ではないでしょうか。 もし、自負、肩書き、知識、経験、能力、そのすべてを失ってしまったなら何が残るでしょう。 何もない―何もないのです。 貧しさ、広大な空虚.... この空虚を、知識で、経験で、あらゆる世俗的な手段で満たすため、 ある人々は神に頼り、宗教的な生を捜し求めます。 あらゆる逃避は、どんなに高貴でも、混乱、悲しみ、愚鈍に導きます。 この内面の空虚がいったい満たされることがあるでしょうか。 あなたは色々なやり方を試みてきました。 それは、ほんのしばらくの間なら忘れておくことができるかもしれません。 あるいはあなたは、それを満たしてしまったと思うかもしれません。 しかし、間もなくあなたは、その胸塞ぐ重苦しい感情に再び出会うのです。 あなたはこの空虚を神で満たしたい。 しかし、精神的な修養によって、宗教的教義・信念によって、追求によって、 この内面的な空虚を満たすことができるでしょうか。 心がそれ自身の貧しさを本当には見ていないので答えを知ることができないのです。 そして、それは尚、この空虚を満たせる可能性をどこかに捜し求めているのです。 このくぼみが、いったい満たされることがあるでしょうか。 それは底無しの穴なのではないでしょうか。 それを満たすためのあらゆる試みは、まったく無駄なのではないでしょうか。 知性の解答や解決は、この広大な貧困を決して豊かにはしないでしょう。 何ものも、それを豊かにはしないでしょう。 何ものも、この底無しの穴を満たすことはないでしょう。 この社会に生きていて、私たちの主な問題の一つは、生のまったくの退屈さです。 快楽を持つかもしれません、車を持つかもしれません、 その他多くのものを持つかもしれません。 が、しかし、この退屈、この味気なさ、この機械的な反復は続いていくのです。 私たちの即座の反応は、 何らかの内面的な豊かさ、充実の感覚を求めることによって、 その空しさの感覚から逃げることです。 私たちは従うことのできる教えと技法とを求めます。 しかし、内面的な貧しさ、惨めさの感覚は依然として続きます。 私たちは、その内部の不十分さ・空虚さの感覚を、決して直接に経験しようとはしません。 しかし、もしもそれを注意して見、それを直接に経験することができるなら― それは、本を手に取ること、テレビをつけることによって、 そこから逃げてしまわないことを意味しますが― もしも、それが何であるのかを完全に経験することができるなら、 そのとき私たちは、その空虚さがまったく違った意味を持っていることに気づくでしょう。 もしも、 内面的空虚のこの感覚から逃げだそうとすることの無益さを理解することができるなら、 そしてそれを注意して見、どんな非難もなしに根気良く調べることができるなら、 そのとき、それはまったく違う何かをあらわにするでしょう。 しかし、この空虚さの感覚から逃れたいという衝動は非常に強いのではないでしょうか。 現在のところ、私たちは、それが人であろうと教えであろうと、 何かより大きなものと自分自身を同一化することによって、 絶えず自身の安全を確保しようとしています。 しかし、ひとが真実・実在・神を見出そうとする努力のなかで本当に真剣であるなら、 まず第一に、すべての条件づけから自分自身を完全に解放しなければなりません。 このことは、ひとが完全に独り立ち、どんな逃避も求めることなしに 「現にあるもの・あるがままのもの」の真実を注意して見なければならないことを意味します。 このことをあなたが実験するなら、 「安全を求める欲求」という、この問題の全体を喜んで調べる心、 逃避したいというどんな欲求もなしに、完全に、全面的に、それ自身の空虚さを喜んで調べる心 ―そのような心は、非常に静謐に、単一に、自由に、創造的になるということを知るでしょう。 この創造性は、苦闘の、努力の、追求の結果ではありません。 それは、それ自身の恐怖と羨望についての真実を見ているので、 完全に油断がなく静かなのです。 執着を理解する過程のなかに自由があります。 執着を無くそうとすることのなかにではなく。 そこで私たちの次の問いは、「なぜ人は執着し、依存するのだろうか?」です。 自分の内面が何もない砂漠なので、私たちは他人を通して水を見つけようとします。 空虚で貧しく、惨めで物足りなく、関心も重要性もないので、 他人を通して豊かになろうとします。 他人の愛によって自分を忘れようとします。 家族、国、恋人、理想的な信念によって、この不毛の地に花を咲かせようとするのです。 そして、神こそが究極の恋人なのです。 そういう訳で、私たちはこれらのものを自分につなぎ止めておこうとします。 そこには苦痛と不安定があり、しかも砂漠は以前にも増して不毛なものに感じられます。 もちろん、不毛には以上も以下もありません。 それは依然として同じものであり、 苦痛を伴うさまざまな執着へ逃避したり、その苦痛から無関心へ逃避したときに それを見るのを避けていただけの話なのです。 故に、不毛と空虚さは元のままなのです。 「あるがままのもの」を直視することがそのものを終わらせる。 あなたは、 一束の記憶と深まりゆく寂しさに過ぎない「あるがままの自己」と直面することになる。 力と成功(承認)への欲望は、この寂しさの残骸からの逃避である。 それら、あるがままの恐怖から、何らかの方法・対象を使って逃避しようとするのではなく、 それを見つめ、それと向き合わなくてはならない。 恐怖は、「事実、あるがままのもの」から逃避するという、 まさにその行為から生じてくるのである。 ひとは、すっかり完全に、そして自発的で自然に、力と成功を捨てなければならない。 選択することなく直面し、観察し、受動的に気づいているそのなかで、 その残骸と寂しさは全く違った意味を持つのである。 何かと共に生きることは、執着なくそれを愛することである。 寂しさの残骸と共に生きるには膨大なエネルギーがなければならず、 また、このエネルギーは、もはや恐怖が存在しないときにやってくる。 あたかも実際のドアをかいくぐって行くようにして、 あなたがこの寂しさを通り抜けてゆくとき、 あなたは自分がこの寂しさと一体であり、 言葉を超えたその感覚を観察している観察者ではないことを理解する。 あなたはそれである。 そして、あなたはこれまで多くの巧妙なやり方でやってきたようには、 それから逃れることはできなくなる。 あなたがその寂しさなのだ。 いかなる方法によってもそれから逃れることはできず、 何ものもそれを覆い隠すことはできない。 そして、それと共に生きているあなただけが存在する。 それはあなたの一部であり、また全体でもある。 希望や絶望によっても、知的な考察によっても、それを消し去ることはできない。 あなたはその寂しさであり、かっては燃え上がったその残骸である。 それは一切の行為を超越した癒されることのない完璧な孤独である。 頭脳はもはや、逃避の手段や方法を画策することはできない。 それは、自らの孤立や防御や攻撃の絶え間ない活動を通して、この寂しさを作り上げてきたのだ。 頭脳が選択することなく無作意的にこのことに気づくとき、 頭脳は喜んで死滅し、完全に静止する。 そのとき、この寂しさ、この残骸から新しい運動が生まれる。 それは単独の運動である。 それは、すべての影響、すべての強制、あらゆる形態の探求と達成が、 自然に、そして完全に停止したときの状態である。 それは既知なるものの死である。 そうして初めて、あの道なるものの決して終わることのない旅がある。 かくして創造である純粋性を持つ力が存在する。 私が何かを理解したいなら、まず第一に、それを愛さねばなりません。 それと親交がなければなりません。 抵抗や不安、恐れがあってはなりません。 それらがある限り、それは非難、正当化、同一化の過程になります。 何かを理解するには愛がなければなりません。 私があなたを理解したいなら、私はあなたを愛するに違いありません。 偏見を持たないに違いありません。 あなたは「私は偏見など持っていません」と言います。 しかし、“私たち”それ自体が偏見の束なのです。 私たちは言葉の煙幕を張ります。 この遮蔽幕を取り去り、悲しみの意義が何であるかを見ましょう。 そのようなやり方を通してのみ、 このとてつもなく複雑な問題を私たちは解決するだろうと思います。 それ故、理解は親交を要します。 理解は、未知のもの・名づけ得ないものを知覚することができる心を必要とします。 なぜなら何かを理解したいと願う心は、それ自身極めて静かでなければならないからです。 それは認識の状態ではありません。 理解があるべきなら親交がなければなりません。 それは愛を意味します。 一つの特別なレベルにおいてのみでなく、あらゆるレベルにおいての。 何かを愛するとき、それは始めも終わりもない過程です。 それに名づけることはできません。 恐怖、報酬、非難の障壁はありません。 その対象との同一化もありません。 そのとき、苦しみの問題を調べることができます。 親交のその感覚、 私たちが苦しみと呼んできたその問題を本当に愛しているその感覚があるなら、 私たちはそれを充分に理解することができるでしょう。 さもなければ私たちは、単にそれから逃げ出し、 さまざまな逃避に駆け込むだけです。 それゆえ、できればその場所に私たち自身を置きましょう。 そのときにのみ私たちは、苦しみと呼ばれるこのものを理解できます。 心理的な障壁―伝統を通しての反応である非難や正当化はないはずです。 そのとき私たちは、私たちの大抵を消耗させているこのもの― 苦しみに接近できるのです。 私たちの生活は、なぜこれほどまでに空虚なのでしょうか。 私たちは自分自身の内面を覗いたことがなく、自分自身を理解していません。 この人生、この現実こそが私たちにとっての全てであり、 したがって、それを充分に理解する以外道はないのだということを、 私たちはどうしても認めようとしないのです。 私たちは自分自身から逃げてる方がよいのです。 私たちが現にある自他の関係から離れて人生の目的を探し求めようとするのは、 そのためなのです。 私たちは、現状のままの私たちで居続けるでしょう。 くすぶり続ける不満を抱いて、生きてることにうんざりしながら、 空虚で、みじめなまま.... 老いさらばえるまで悲哀に満ち、解決されなかった問題を抱えてやっていきます。 そしてそれが、たいてい私たちの生なのです。 私たちはそのすべてに慣れていきます。 心は重く、鈍く、どんよりと、無感覚になっていきます。 あるいは私たちは、目的、意味を作り出し、その意味や目的に熱中して生きていきます。 しかし、それはなお変化とは言えません。 私たちは本当に変わることができるでしょうか。 思考によって作り出された、時間のなかの、空間のなかの、 「あるがままの私」と「あるべき私」との間の変化は、まったく変化ではありません。 それはなお時間の領域内にあります。 |