Krishnamurti 最初で最後の公案   Ver 1.42

唯一のなすべき行為―絶対的無行為―受動的観察





苦しみから逃れようとすることなく、全面的に、完全に、そこに留まり、
そこから離れよう、苦しみを和らげようとする如何なる思考の運動もなしに
みずからのなかの苦しみをあるがままに観察するとき、
ひとは、たぐい稀な心理的変容が起こるのを見る。



心がもはや、「これ」を「あれ」に変えようとする試みに関わっていないとき、
そのとき、まさにその事実自体が作用し始めます。
しかし、心が変えたいと望むかぎり、
それがもたらすかもしれないどんな変化も、それがそうであったものの継続であるでしょう。



あなたは、未だかって自分の恐怖を見ようとしたことがないのではないでしょうか。
あなたは、「よろしい、私は恐れている。それを見てみよう」と、
これまで一度も言ったことがないのではないでしょうか。
命名せず、非難せず、それを解消したり克服したりしようとはせずに
恐怖を見たことが決してないのです。

ただそれと共に居なさい―そこから離れるどんな動きもなしに。
そして、それを実際にやってみるなら、
あなたは非常に意外なことが起こるのを見るでしょう。



問題(事実)から逃げることが更に問題を深めて(強めて)しまうのだと云う、
この事実を見ないかぎり、私は逃げ続けます。
しかし、一度それを見てしまえば、もう逃げはしません。
思考には事実を変えることはできない。それは事実から逃げるだけです。
しかし、もし逃避への衝動の一切が止んでしまったならば、
事実は凄まじい変貌を遂げるのです。



思考(私・意識)に為すことのできる唯一価値あることは、
それ自身の絶え間ない運動に気づいていることだけであろう。
思考がそれ自身を終わらせようと努力するとき、
それは単に、よりいっそうの快感、満足、達成を求めているに過ぎない。
思考はそれ自身の働き方のパターン、その巧妙な欺瞞に気づかなければならない。
「あろう」、または「あるまい」とする如何なる願望もなしにそれ自身に気づくことによって、
精神は沈黙の状態に至る。
それは思考がまったく働いていない受動的な注視状態である。



どんな形であれ、そこからの逃避があってはなりません。
このことの困難さを見て下さい。
と云うのは、心は逃げることにとても巧妙であるからです。
心は、その問題にどう対処したらいいのか、
その問題をどう処理したらいいのか知りません。
したがって、それは逃げようとします。
あらゆる形態の逃避、目をそらすこと、立ち退く運動は問題を継続させます。
そのことを理解するなら、
そのとき心は「あるがままの事実」に直面し、他に何もしません。



私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、
それを粉砕することができるのか、
それなしに生きることができるのかどうか知りたいのです。
私はそれをすることに飢えています。
どんな量の描写、説明も私を満足させて来ませんでした。
それは私が、意識の全体を、
この過程―私―の全体を理解しなければならないことを意味します。
そして、それを理解していくなかで、私は世界を理解していきます。
その二つは別々のものではないからです。
私の憎しみは世界の憎しみです。
私の嫉妬、貪欲、成功を求める衝動―そのすべてもまた世界に属するものなのです。
それゆえ、私の心は、このすべてを粉砕できるでしょうか。
「そのやり方を教えて下さい」と言うひとは、
単に葛藤を除去する方法を求めているに過ぎません。
それは葛藤を理解することではありません。
そこで私は「私は葛藤に気づき続けなければならない、
私の野心、貪欲、絶え間の無い衝動の動きを見守り続けねばならない」
ということに行き着きます。
そして、私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。
しかし保証はありません。

私が見出したいなら、絶対に必要なものは何でしょう。
情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。
それらによって心は非常に鋭く、油断なく、
あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。
確かに、それが葛藤の、まさに終わりまで行く道です。



パターンを破りたいという欲求の上に立った如何なる行為も
別の新たなるパターンを生み出すに過ぎず、
その結果、また同じことを繰り返してしまう。
私がやることはすべて、古いパターンの強化か、
新しいパターンへの逃避になってしまうのである。



それは、私たちが知っている何もかもの断崖の、
まさにその端にまで行かなければならないということかも知れません。
その結果、努力すべての、徳の養成すべての終止があり、
心がもはや何も求めないように。
私には、それが意識的な心に為すことができる唯一価値あることであるように思えます。
それがする他の何であれ、
もう一つのパターン、もう一つの習慣を作り出してしまうに過ぎません。
心は、それ自身が集めてきたあらゆるものごと、
あらゆる経験と知識の蓄積物をそれ自身から剥ぎ取って
裸にならなければなりません。
その結果、それが習得されたのではない天真爛漫な状態にあるように。
しかし、多分、そこに私たちの困難があるのでしょう。
私たちは「見出すためには天真爛漫でなければならない」と聞き、
天真爛漫さを養おうとするのです。
しかし、一体、天真爛漫さが養成され得るでしょうか。

そこで、ひとは、このことの真実を見なければならないのかもしれません―
この心には何もすることができないということを。
この真実を見ることが、心に為すことができる唯一価値あることなのかもしれません。
おそらく、真実を瞬間的に見る能力がなければならないのでしょう。
そして、その知覚そのものが、一瞬のうちに過去のすべてを取り除いてくれるのでしょう。

私たちが真剣であればあるほど、ますます何ものかになろうとしたり、
何かを達成しようとしたりすることの危険は大きくなります。
「知らないであること」こそが本質的なものなのではないでしょうか。
しかし、私たちはみな達成を求めます、結果を望みます。
私たちは「これらのものごと全てをした。ところがどこへも行き着かなかった。
ところが何も起こらなかった。私は何も変わっていない」と言います。
この成功、達成を求める絶望的な感覚....
それは心の分離性を強調するのではないでしょうか。

意識的、無意識的な努力が常にあります。
したがって心は、
過去の、時間の動きから、一瞬たりとも空っぽではなく、自由でもないのです。

そこで重要なことは、
もっと多く読んだり、もっと多く聞いたりすることではなく、
むしろ自分自身の内面的動機、欲求、意志などに全面的に気づいていることだと思います。
そのすべてに単純に気づいており、そのままにしておくこと。
それを変えようとしたり、何か他のものになろうとしないで。
なぜなら、何か他のものになろうとする努力は、もう一つの仮面をつけるようなものだからです。
私たちの熱心な取り組みそれ自体が、
現にあるものごと(事実)の理解を妨げる可能性を持っているのです。
ですから、私たちがしなければならないことは、
思考の全体の意味を捕えること―心全体の突然の知覚です。
それは、どうやってそれを見るのかを外に尋ねることの結果ではありません。
それは、不断に注意して見ること、調べること、問い尋ねることの結果です。
そのとき私たちは、本当に宗教的な生とは何であるのかを知るでしょう。



観察者と観察されるものとの間のこの分離が存在するかぎり、
根本的な革命は可能ではありません。
堕落が常にあることでしょう。
そこで、あなたは「どんな風にして、この分離が終わるのだろうか」と問うでしょう。
どのようにして観察者が―
過去のもの全ての集積である観察者が―終わることができるでしょうか。

それは、決して終わることができません!(ありません!)

このことの理解があるとき、そのとき観察者は終わります。
それは時間の問題、観察者が徐々に消えるという問題ではありません。
私たちは「徐々に観察者意識を減らしてをいこう、徐々に非暴力になろう」と考えるよう条件づけられています。
しかし、その間も、私たちは暴力的であり続けるのです。
あなたが、自我、「私」である観察者が、いかにあらゆるものを歪めるか、
それがいかに分離し、葛藤を生み出すかを明晰に見るとき、
その気づき(観察)のなかに観察者はいないのです。



私たちは恐怖を終わらす可能性、
あるいはむしろ、その不可能性を調べているのです。
可能なことは既に為されています、既にやり終わっています。
それが可能なことなら、することができます。
しかし不可能なことは、心理的に言って
「どんな明日もまったくない」ということを理解するときにのみ可能となります。

私たちは恐怖という途方もない問題に直面しているのです。
そして人間は明らかにそれを免れることができずに来ました。
肉体的にだけでなく心理的にも、決してそれを免れ得ないできました。
さまざまな形の娯楽や宗教によって、
人はいつでもそれから目を逸らし、気を紛らわしてきたのです。
そして逃避は、「あるがままのもの」の回避であったのです。
それゆえ私たちは、それから完全に自由であることの不可能性に関わっているのです。
したがって、不可能なことが可能になるのです。



恐怖を持たずに生きるということは、特定の型を持たずに生きるということです。
私が特定の生きる型・様式を求めるとき、
その様式そのものが恐怖の発生源となるのです。
ある一定の型のなかで生きようとする欲求こそが恐怖を生み出すのです。
それでは私は、この型を破ることができるでしょうか。

私がその型を破ることができるのは、次の真相を理解したときのみです。

つまり、その型が恐怖を生み出しているのであり、
そして、この恐怖が逆にその型を強化しているのだ、ということをです。

それでは、どうしたら恐怖を引き起こすことなく、この型を破ることができるでしょうか。
私が何もすることなく、ただその型を見ているとき、どういうことが起こるでしょうか。

そのとき私は、精神そのものが枠であり型であるということを理解するのです。
つまり精神は、みずから生み出した習慣的な型のなかで生きており、
その精神が行うことはすべて、古い型の強化か、新しい型への逃避にしかならないのです。
したがって恐怖を取り除くために精神がやることはすべて、恐怖を生み出す原因になるのです。



何の反応もなく、ただ、この条件づけに気づいているだけであったなら、
何が起こるでしょう。
あなたがこの条件づけに無選択に気づいているだけであったなら、
一体何が起きるでしょうか。
そこには何の行為-反応(action-reaction)もありません。



心は、条件づけから自由になることができるでしょうか。

あなたが条件づけの危険を見るとき、
あたかもそれを崖っぷちか野獣に直面しているかの様に見るとき、
それはいかなる努力もなしにあなたからすべり落ちます。
しかし私たちは条件づけられていることの危険を見ようとはしないのです。
もしあなたが、その危険を、強烈に、生命に関わる程の強烈さで見たならば、
直ちにあなたはそれを投げ捨てるでしょう。



あなたは、それ(恐怖・問題)に対して何をすることもできない。
あなたが何をしようと、それは逃避の活動である。
そのことが悟られるべき最も肝心なことなのである。
あなたは即、その対象そのものであり、別個の実体ではない。
観察者とは、すなわち観察される対象そのものなのである。



精神の、いかなる方向へのいかなる運動も、それ自身の条件づけられた結果を生み出す。
それ自身を変容させるべく精神が努力するとき、
それは単に別のパターンを築き上げるに終わる。
それ自身を自由にする為の精神のあらゆる意志と努力は、
それ自身の境界内―時間の、思考の境界内を出ることができない。
それら全ては、思考の存続と、理想・追求の強化をもたらすに過ぎない。



もしも、あなたがこの循環の悪性に気づき、
「あなたはそれを打破できない」ということを悟れば、
その気づきによって検閲者、観察者はいなくなるでしょう。



心は―意識的な心と無意識的な心の全体は―
それ自身から過去の動きの一切を拭い去ることができるでしょうか。
それが瞑想と云われるものの全てです。

どんな選択も限定もなしにそれ自身に気づいており、その活動のすべてを見ている心―
その心は、既知のものの全体を完全に空にできるでしょうか。
過去のものの何らかの残滓があるならば、
すべての過去が掃き清められていないならば、
心は無垢ではあり得ないのです。



己れのなす全ての反応―
一切の思考、感情、意志、欲求が条件づけられていることを、
自由な思考、自由な意志などあり得ないことを、
精神自身が悟ったとき、何が起こるだろうか。

精神が、それ自身の条件づけの全体を悟ったとき、
そのとき、その一切の運動は終わる。
それは、いかなる願望も強制も動機もなしに、完全に静まり返る。
その時にのみ「自由」がある。



すべてを否定することが自由である。
私たちが揺ぎないと思い込んでいたあらゆるものの否定―
すべての社会道徳の否定、権威の否定、
精神について誰かが言ったことや結論づけたことの否定、
伝統の否定、教義の否定、技術的な知識以外のすべての知識の否定、すべての経験の否定、
快楽の思い出や忘れられた快楽から湧き起こる衝動の否定、あらゆる達成の否定、
特定の仕方で行為をするという誓約の否定、すべての観念、法則理論の否定。
このような否定が最も積極的な行為であり、それゆえ自由なのである。



私は否定し、捨ててしまいました―答えを持たないまま、そのすべてを。
私はそれを完全に捨ててしまいました。
私がそれを、動機なしに、反応なしに捨ててしまうとき、何が起こるのでしょうか。

何が起こってしまったのか答えて下さい。
私の心は否定の状態にあるのではないでしょうか。
すべてを否定することによって、私は否定の状態にあるのではないでしょうか。

私の心は空っぽです。
なぜなら、それはどんな刺激にも依存していないからです。
心は完全に否定的ではあるが、しかし空白なのではない状態にあります。
それは活力に満ち、エネルギーに満ちていますが、もう一つの要素がなければなりません。
―電気のなかに二つのもの、プラスとマイナスとがあるように。
私はその片方を持っているだけです。
さて、何がもう一つのものをもたらすのでしょうか。

否定的なものはそれ自身の動きを持っています。
それは静かではありません。
まったく動きがないとき、
否定的なものに出会うために生じている積極的なものがあるのです。
それを注意深く見て下さい。
私の言うことに耳を傾けないで下さい。
それをしてごらんなさい。
そうすればたちまち見えるでしょう。
それはすばらしい。だから、さあ、おいでなさい!

心は断片の上で生きてきました。
そして絶え間のない葛藤、努力、競争の状態のなかにあります。
その心がいまや言います―「終わった。私はまったくその領域に入るつもりはない」と。
心は、そのことの馬鹿馬鹿しさ、おろかさを見ているので、
その領域に入らないことによって、それは否定的になっています。
否定的な状態はそれ自身の動きを持っていますので、
それが完全に静かであるとき、
空白なのではなく、エネルギーに満ち満ちて、したがって静けさに満ちているとき、
積極的なものが、そこに、どんな方向からでもなく、やって来ます。
このことは少し注意深く考えることが必要です。
よく見てごらんなさい―非常に静かに、どんな動きもなしに....

何が起こっていますか。
あなたの心はそれています。
あなたはそれを統制しよう、それに抵抗しようとしています。
そのすべてをやり通してごらんなさい。
そうすればそのとき、
あなたの心、あなたの身体、あなたの神経、あなたの脳細胞のすべてが静かです。
そのとき、あなたが完全に静かな心で座っているなら―それが否定の状態なのですが―
何が起こっていますか。

もう一つの要素が入ってきています。
もう一つの動きがそのなかに生じているのですが、
それは何かの刺激によって引き起こされてたものではありません。
そうではなく、
心がそんなにも完全に空白、からっぽ、否定、受動性の状態のなかにあるので―
そのなかに「私は更に進まなければならない」と言っている現状否定によって引き起こされた動きはまったくないので―
心によって引き起こされたのではない動きがあるのです。

心には行くべき先がありません。
それは答えを期待したり、待ったり、望んだり、捜したり、見出そうとしたりしていません。
それで、絶対的な否定、受動的な静けさがあるとき、
そのなかにまったく違った動きが生じるのです。
積極的なものと否定的なものが出会っているのです。

二つのものが出会ってしまいました。
完全な否定と、断片的な積極性ではない完全な積極性の両方を知っている、その心をもって、
この並外れた積極性と否定性を知っている心をもって、注意深く見てごらんなさい。
この受動性、否定性を持った完全に静かな心だけが、
悲しみなしに生を全体的に見ることができるのです。
心は、死ぬことが終わりではないその生を見ることができます。
なぜなら、死はそのとき新しいものだからです。
私が昨日に、昨日の記憶すべてに死ぬなら、
私の心は新鮮であり、天真爛漫であり、生き生きとしています。
私はもはや死を恐れてはいません。
私は今、新しい道を見出してしまいました。
積極性である完全な空白のなかから、
どうやってあらゆるものを全的に見るのかを見出してしまいました。



精神とは、まったくもって「既知のもの」です。
私たちは、その「既知のもの」から測定し判断することによって
「未知のもの」を知ろうとします。
だが明らかに「既知のもの」は、決して「未知なるもの」を知ることはできません。
それは、ただ経験済みのもの、教えられたもの、
集めてきたものを知ることができるのみです。
もし私が、精神には「未知のもの」を知ることはできないということを非常にはっきりと悟るなら、
そこには純然たる静寂があります。
しかし、もし私が、「既知のもの」の能力によって「未知なるもの」を捕らえることができると思うなら、 おびただしい騒音を生み出すことでしょう。
私はおしゃべりし、拒絶し、選択し、「未知なるもの」に至る道を見出そうとすることでしょう。
しかし、心が、「未知なるもの」を知ることにおいて絶対的に無力であることを十分に理解したなら、
もしそれが「未知なるもの」に向かってはただの一歩も歩みよりようがないのだということに気づいたとしたら、そのとき一体何が起こるでしょうか。

そのとき、精神は完全に静まります。
それは絶望の故にではありません。
もはや何ものをも探さなくなるからです。
神や幸福、実在などへの探究の一切が終わるのです。
探究にできることは、「既知のもの」から「既知のもの」へと移りゆくことだけです。
そして精神にできることはと云えば、
自分は決して「未知なるもの」へ至り着くことなどできないという事実に気づくことだけなのです。
「既知なるもの」の領域でのどのような運動も、依然として「既知なるもの」の領域内にあります。
それは私が気づかねばならない唯一の事実であり、精神が悟らねばならない唯一の真実です。
そうしてこそ、いかなる刺激も目的もなしに、精神は静まります。



私たちは決して不可能な問い(impossible question)をしません。
不可能な問いとはこれです―

「心は、それ自ら、みずから自身である既知のものすべてを、
経験、知識、見解としての過去のすべてを、捨て去ることができるだろうか。」

それは不可能な問いです。
それにとてつもない真剣さと情熱とでもって取り組むなら、
あなたは、それを見出すでしょう。



そこで、心理的問題としての「既知のもの」に死ぬことができるでしょうか。
努力なしに、したがって時間なしに死ぬことができるでしょうか。



心は知識から、既知のものから自由であり得るでしょうか。
それを単に知的にではなく、本当にとてもとても深く尋ねるなら、
これは途方もない問いです。

いったい心は既知のものから自由であり得るでしょうか。
さもなければ、どんな創造もあり得ません。
そのとき日の下に新しいものは何もありません。
それは常に改良されたものの改良です。



確かに、悲しみは、無知(自己を知らないこと)の結果であるだけでなく、
絶えず何かになろう、何かを獲得しよう、何かを拒絶しようとしている、
この莫大な努力の結果なのです。
私たちはこの世界のなかで、何かであろうとか、何かになろうとする努力なしに、
達成しよう、獲得しようとする意志なしに、生きることができるでしょうか。

私たちは努力し続けます。
私は「努力があってはならない」と言っているのではありません。
そうではなく、いま、努力の問題全体を調べているのです。

私は自分自身のなかに見ることができます―
私が、この世界で、(心理的・宗教的にであっても)成功したいと望むかぎり、
私は努力しなければならず、達成しようと努めなくてはならないということを。
そして苦痛は、努力の、まさに本質であるように思えます。

「努力しないでこの世界を生きていくことはできない。自然界のあらゆるものは戦っている。
私たちが努力しないなら、生きていくことはできないだろう」と反論するのは簡単なことです。
しかし、それは私がいま話していることではありません。
私は今、努力そのものの全体を調べようとしているのです。
努力をはねのけたり続けたりすべきだと言っている訳ではありません。
私は今、努力が心理的に必要であるかどうか、
それが悲しみの種を産み出さないかどうかを尋ねているのです。

努力があるところ、意志の行為があります。
それは本質的に欲望です。
一つの欲望に相い対する、もう一つの欲望。
そこに矛盾があります。
この矛盾に打ち勝つため、私たちはさまざまなやり方で統合をもたらそうとします。
それは再び努力を含みます。
それゆえ、私たちの考え方の全体、私たちの生き方の全体が絶え間のない努力の過程なのです。
それでは心は、努力なしに、動機なしに、
この複合体―この欲望、衝動、強制の束から、それ自身を解放することができるでしょうか。

私は、私の生が一連の欲望であり、
それが多くの欲求と挫折、希望と憧れで占められていることを知っています。
理想像に適応しようとしての自己練成、社会的な評価を求めての追求があります。
そして、そのすべてのなかに自由でありたい衝動があります。
そのすべてが「私」、「自己」であり、それが悲しみの源なのです。

確かに、私が悲しみから自由になろうとして為すどんな行為も、悲しみを強めるでしょう。
なぜなら、それは再び努力を含むからです。
何かでありたい、何かになりたい、成功したい、などのどんな努力も
更なる悲しみを産み出すに過ぎないということの根本的な理解がなければなりません。

悲しみを免れるために努力することによって、私はそれに対する抵抗を築き上げます。
しかし、その抵抗自体が更に悲しみを生じさせる抑圧の一つの形なのです。
私がこれを見るなら、そのとき私は何をしたらいいのでしょうか。
悲しみに捕えられている心は、
どうやって悲しみからそれ自身を解放したらいいのでしょうか。
私は何をすることができるのでしょうか。

心が為すどんな動きも、その背後に動機を持ちます。
そして動機は必然的に葛藤を引き起こし、更なる悲しみを生み出します。
これが問題の全体です。
私は、自分が自分の人生において成功することができたなら―
たくさんのもの、社会的承認、権力、能力、才能を持つことができたなら―幸福だろうと思います。
それで私は苦闘します。
しかし、私の欲しいものを手に入れる苦闘の過程そのもののなかに、
葛藤があり、苦痛があり、挫折、悲しみがあるのです。

あるいは私の心が世俗的でないなら、私はいわゆる精神的なものごとに心を向けます。
そこでもまた、私は何かを達成しよう、真理、知識、実在、経験を得ようとするのです。
私は徳を養成し、規律に従い、
私の心が平和であるかもしれないその果てまで、その何らかのシステムに従うのです。
そこにも、また、苦闘があり、葛藤、抑圧、抵抗があります。

それで、心はどうしたらいいのでしょうか。
私は苦痛の全体のパターンと苦痛の原因を知っています。
私はまた逃避の仕方を知っています。
そして苦痛から逃避することが答えではないのが分かります。
ひとはわずかの間なら逃避できるかもしれません。
しかし、苦痛はなお長引く毒のようにそこにあるのです。
それで、心はどうしたらいいのでしょうか。

どうやって心は何かを知るのでしょうか。
「自分はこの心の痛みを知っている」と私が言うとき、それはどういう意味でしょうか。

それは単なる知的な認識に過ぎず、
この苦痛についての言葉上の合理化された理解に過ぎないのでしょうか。
単に私が学んできた、私が教えられてきた、私が読んできた何かとして
それを知っているに過ぎないのでしょうか。

それとも私は、私の生存のすべての瞬間において、
私のなかで起こっている実際の過程として、
内面的に、全的にその苦痛に気づいているのでしょうか。
それはどちらでしょう。
私はこれは重要な問いかけだと思います。

どうやって私は自分の苦しみを知るのでしょうか。
単に挫折の経験を持ったので、
あるいは私にとって大切な誰かが死んだので、それを知るのでしょうか。
それとも私は、苦しみが欲望すべての、何かになることすべての性質であるということを
自分の全体で知るのでしょうか。
そして私はそのことを見出すために、
あらゆる欲望の過程を経験しなければならないのでしょうか。

確かに、ひとが欲望を―
それは意志の行為を必然的に含み、矛盾、抑圧、抵抗、葛藤を必然的に含みますが―
完全に理解しないかぎり、苦痛があるに違いありません。

私たちが表面的なものごとを望もうと、深く根本的なものごとを望もうと、
いずれにしても葛藤が常に含まれています。
それで私たちは、心が欲望の過程から、
何かでありたい、何かになりたい、達成したい、真理(答え)を見出したい欲望の全体の過程から、
自由であることができるかどうか見出すことができるでしょうか。

そうでなければ、生は継続する葛藤、悲惨の連続です。
あなたは万能薬、半永久的な逃避を見つけるかもしれません。
しかし悲惨はあなたを待ち構えています。
あるいは、あなたは何らかの活動に身を打ち込み、信念に避難し、
我が身を忘れて人に奉仕するかもしれません。
しかし葛藤は尚そこにあるのです。

それで心は、欲望の過程を理解することができるでしょうか。
そして、この理解は、努力のことがらでしょうか。
それとも理解は心が欲望の過程全体を見るときにのみ生じてくるのでしょうか。
―それを見、それを経験し、それに完全に気づいており、
そして心がそれについて何もできないということを知って、
その問題に対して静かであるときに。

私はこれが基本的な問題であると思います。
どうやって欲望を超越し、変容させ、制御するかではなくて、
欲望の十分な意味を理解すること。
そしてそれを知って、それに関するどんな活動もなしに、
完全に動かないで、静かであること。

なぜなら、心が欲望のような巨大な問題に直面するとき、
それの側のどんな行為もその問題を歪めるからです。
それと取り組むどんな努力も、問題を取るに足らなく、浅薄にするのです。

しかし、私たちが、どんな動きも無く、どんな否認も無しに、
それを受け入れたり拒絶したりすることもなしに、
自らのなかの欲望、この膨大な問題を注意して見ていることができるなら、
そのとき、欲望がまったく違った意味を持つということを、
矛盾なしに、苦闘なしに、到達し達成するためのこの絶え間ない努力なしに
この世界を生きることができるということを知るでしょう。

心がもはや欲望によって汚されておらず、すべての問題がその心と関係するとき、
そのとき、心それ自体が実在なのです。
私たちが知っているものとしての心ではなく、
完全に自己がなく、欲望のない心が。



自身を条件づけから解放しようとして為されるどんな行為・努力も、
更なる条件づけを生み出すに過ぎない。

私が何らかの教義や信念から自身を解放しようとしているなら、
それは、より望ましい状態であると考えるものに至るため努力しているに違いありません。
したがって、変えたい動機が変化を条件づけます。
それで、私は自分自身の条件づけを完全に観察し、理解し、
そして絶対的・全面的に何もしないでいなければなりません。
これは非常に難しいことです。

私は、自分の心が全面的に混乱しており、条件づけられていることを
自分自身で知らねばならず、
そして変化するためのどんな努力も、
その混乱の領域内の運動でしかないということを理解しなければなりません。

あなたの心が混乱しているなら、
そのとき、あなたの思考、あなたの行為、あなたの指導者の選択も
また混乱していることでしょう。
しかし、あなたが自分が混乱していることを知り、
その混乱から生まれるどんな行為・努力も、
更なる混乱をもたらすだけだということを完全に理解したなら、
そのとき何が起こりますか。

あなたが、ただ深くその事実に気づいているだけなら、
そのとき、まったく違った過程が働き出します。
それは努力の過程ではありません。
あなたの現状を変化させたいという欲望はありません。

あなたは、自分がまったく全面的に混乱していることを知っています。
したがって思考すべての停止があるのです。
これは理解するのが非常に難しいことです。
なぜなら私たちは、
合理的・論理的な思考によって問題を解消することができると強く信じているからです。
しかし私たちは、思考の過程を本当に調べたことがないのです。
「思考とは何か」という問題の全体を決して突っ込んで調べたことがないのです。

私がヒンドゥー教徒、仏教徒、あるいはその他の何かであるかぎり、
私の思考はそのパターンによって形成されているに過ぎません。
したがって、私の思考、私の生に対する応答は条件づけられています。
私がインド人、日本人、何であれそれとして考え、
その民族的・文化的な背景に従って行動するかぎり、
それは必然的に、分離に、憎しみに、戦争と悲惨へと導きます。
それで、私たちは思考の問題の全体を調べなければなりません。

「思考の自由」などありません。
なぜなら思考すべてが条件つけられているからです。
私が、すべての思考が条件づけられているということを本当に理解し、
したがって、その条件づけから自由であるときにのみ真の自由があるのです。
それは本当に、思考が全くないこと―
カソリック、ヒンドゥー教徒、仏教徒、日本人としての観点からの思考がまったくなく、
純粋な観察、完全な全的な注意があるということを意味します。
そのなかに本当の革命があります。
―思考が生の問題を解決しないという測りしれない理解のなかに。

私は「思考をなくさなければならない」という話をしているのではありません。
その反対に、思考の全過程を理解するには、
受容や否定ではない強烈な調査を必要とすると言っているのです。
心がそれ自身の全体の過程を理解するときにのみ、基本的な革命、根本的な変化があるのであり、
それは努力によってはもたらされません。
努力のない状態のなかから全的な変化が生じるのです。

しかし、この変化は時間のものではありません。
それは「結局、それは生じるだろう。私はそれに取り組まなければならない。
私は“これ”ではなく“それ”でなければならない」と言うことのできるものではありません。
その反対に、あなたが変化の要素として時間を導入するや否や、
本当の変化の可能性はなくなるのです。

測り知ることのできないものは、この世界のものではありません。
それは、心によって作り上げられたものではありません。
測り知ることのできないものを理解するためには、
私たちの生きているこの世界を、
私たちが作り上げ、私たちがその一部である、
野心、羨望、憎しみ、恐怖、欲望に満ちたこの世界を、
理解していかなくてはならないのです。
私たちがすべての尺度を超えている何かを発見するのは、
それらを理解することを通じてのみなのです。

それは意識と同様無意識を、私たち自身を理解しなければならないことを意味します。
そして、あなたがそれを始めるなら、これは難しいことではありません。
あなたが本当にあなた自身の存在の全体を知りたいなら、
あなたは容易にそれを発見できるのです。
それは、あらゆる瞬間に、あらゆる関係のなかで、それ自身をあらわにします。
―あなたがバスに乗っていたり、タクシーに乗っていたり、誰かと話していたりするときに。

しかし、私たちの大部分はそのことに関わっていません。
なぜなら、それは真剣な取り組み、あくまでもやり抜く調査を必要とするからです。

これは、あなたが知的に弄ぶための単なる言葉ではありません。
あなたが実際に、直接に、これを実践し経験しないなら、それには何の意味もないでしょう。
あなたがこのことに関して、あなた自身の直接の理解を持たないなら、
努力と悲しみの、悲惨と混乱の世界は続くでしょう。



もし、あなたが、いかなるものであれ人間の悩みを、
一つでも完全に解決することができたなら、
あなたは人間の悩みのすべてを解決することができるでしょう。





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